プロローグ

古の時代、この世界は混沌に支配されていた。
全ての人々は種族によって分たれ、互いに憎しみ、傷つけ合った。
戦いは大地を血の色に染め上げ、積もり重なる屍は山となった。
終わりなき戦いを憂いた神々は人々に大いなる試練を与えた。
いかなる者より力強く、いかなる者より賢く、いかなる者より魔法に長けた万物の王。
降り立った、その大いなる命を人々は竜と呼び習わした。
竜の火は幾つもの城を焼き、幾つもの国を溶かし、人々は大いなる力を前に一つとなった。
手を取り合った人々に神々は一人の英雄を遣わした。
神々の寵愛を受けた英雄は虹の剣を振るい、竜を討つ。
やがて英雄はその栄光と麗しい姿から竜姫と呼ばれ、竜姫はその名の下に人々に秩序を齎した。

大国の王女は何度も読み返した、美しい装丁の本を静かに閉じ、傍らの小机に置いた。
『学術都市アーデルクの起源とネルドア神話』
王女は金の飾り文字で踊るその本の題名を嬉しそうに見つめ一息、その視線を自身が幼い頃より共にある部屋のそこかしこに向けた。
天蓋付きの寝台、高い天井から垂れる魔導石を用いた照明、背の高い両開きの衣装棚。
そのいずれもが職人の技が垣間見える、宝飾品の様な一級品。
そして次に王女の両目が捉えた、金の装飾が施された姿見の中には椅子に腰掛ける王女自身の姿が映る。
頭の高い位置で編み込まれた金の髪、同じく金の瞳。高貴でありながら地味な色使いの旅行用の服に身を包んだ、普段の豪奢なドレスとは幾分違う自身に不意に王女は笑みを零すと、再び小机の上の本に手を掛け、適当なページを開いた。
今日、王女は城を旅立つ。
王女が生まれ育ったこの城から、魔導機関車で北東に三日進んだ場所に旅先の街はある。
名を学術都市アーデルクという。
この世界の中心に位置する、神話の伝説が多く残こされた学問の聖地であり、世界唯一の魔法学園を擁する街だ。
大陸で最も強大な王国の姫君でありながら、魔法使いを志した少女は、魔術を学ぶ為にこの街に長きに渡り滞在する事になっていた。
無論、年端もいかない王女が城の外に旅立ち、そこで長く生活する事など簡単に認められる筈もなく、王女はこの日の為に国王である祖父に嘆願し続け、父の旧友に世話になる事を条件にようやく叶った、生まれて初めての姫君らしいわがままであった。
それ故に、いつになく心躍り、落ち着きを忘れた王女の姿は致し方ないものである。
「身だしなみは、うん、大丈夫。荷物は全部まとめたし……」
思い出した様に読み始めた本を置き、直前に覗いた筈の姿見を確認、部屋の隅に置かれた車輪の付いた四角い旅行鞄を見遣る。準備万端。
まだ見ぬ遠い街への期待は際限なく募り、その気持ちを追いかける様に王女は思わず立ち上がった。
すると、その瞬間を見計らったかの様に扉を叩く音が広い部屋に響いた。
「姫様、間もなくご出発のお時間です」
「はい!」
壁越しの侍女の丸い声に王女は明るく返すと、自ら旅行鞄を手に取り、扉の前に立った。
扉を潜れば、王女としてではなく、一人の魔術士見習いとしての日々が始まる。
あるいは、自身の荷物を自身で持つ事は、城育ちの王女にとって俗世に出る為の最初の行動だったのかもしれない。
「いってきます」
今一度、王女は住み慣れた部屋を見渡して小さく呟き、絢爛な扉に向き直る。
さあ、新たな日々のはじまりだ。
一人の魔法使いとなるべく、王女は扉を開いたのだった。