第2話「街と少女」

巨大な魔樹の頂点から這い出た朝日が、街の屋根たちを黄色く染め上げた。

冷えた空気が再び暖まり始める頃、すでにこの街は目を覚まして久しく、商店が建ち並ぶ大通りは夜のうちに忘れたその賑やかさを取り戻す。

そんな目覚ましに丁度良さげな朝日と喧騒は、開け放たれた窓を通り抜けて一人の少女の元にも届く。

初めて迎える学術都市アーデルクの朝。

少女、もといリファリエールが人気料理店の上階にあるこの部屋に訪れてから一夜が明けていた。

 

 

机と棚にお気に入りの雑貨や書物を並べる作業にリファリエールは夢中であった。

家の主から借り受けた、何色でもなかった空間が自分の好みに彩られていく事に自然と笑みが溢れてしまう。そして早朝より始めた荷解きの果て、今や王都から引きずって来た旅行鞄の中身は殆ど新しい部屋の一部となっていた。

改めて部屋を見回してみる。

大国の王女として生まれ、絢爛な城で生まれ育ったリファリエールという少女にとって、その簡素な設えは馴染みのある雰囲気ではなかったが、しかし十分以上に満足する光景であった。

窓から射し込む光に照らされた寝台、照明、衣装棚。

それら全てが新たな日々の始まりを雄弁に語っているように思えた。

「あ、そうだ」

リファリエールは小さく呟くと、思い出したように両開きの衣装棚を開く。

城暮らしの時の様にあらゆる色の布で溢れているわけではないが、そこには燃える焔のように赤いワンピースが掛けられていた。

魔導服。

それは大国の王女を一人の魔法使いにする為の衣装、リファリエールがこの街を訪れた理由を象徴する一着であった。

魔導繊維と呼ばれる魔力を帯びた特殊な糸で仕立てられたその衣服は魔術士、魔導士たる証である。

魔術や魔導器の行使にはしばしば危険が伴うもので、これらを扱う者は皆この魔導服を着る事が常識であり、魔法を学ぼうとするリファリエールにとっても必需品となろう物であった。

リファリエールは今まで着ていた室内着を寝台に脱ぎ置くと、その魔力によって紅蓮に染め上げられた服を衣装棚から取り出した。

白いシャツに着替えた後に新品の魔導服に袖を通す。

「これが魔導服……!」

鏡の前で一回転。

翻る深紅に長い金の髪が追従する。

リファリエールは今までのどんな美しい衣装を着た時よりも心が弾むのを感じ、あまりの高揚感に姿見に映った自分に笑顔を向けた。

襟元にリボンを通し、頭の左右で髪を結ってみる。

美しい金色が、開いたままの窓から入り込んだ風に揺れた。

かつて侍女にしてもらっていた様な凝った髪結いは出来なかったが、単なる二つ結びという今までとは異なる自身の出で立ちは、むしろ新しい日々の中に自分が溶け込む様な感覚を後押ししてくれるような気がした。こうして、リファリエールの新たな日常が始まったのであった。

「リファリエール様!よ、よろしいでしょうか?」

少し強張った様な少女の声と、扉を叩く音が二つ部屋に転がる。

「どうぞ」

声の主は角と尻尾、橙の髪を持つ少女、ミージュであった。

いささか声の大きさや調子がおかしかった様な気がしたが、それを咎める様子もない外国の王女にミージュはひとまず安心する。

そして、市井の子として生まれ育ったミージュという少女に、外国の貴人の部屋の扉を開けるなどという経験があるはずが無いし、また作法を知る由もなく、ただ恐る恐る扉の取手を引いた。

部屋には外気と同じ、花の香りを孕んだ空気が満ちていた。

紅蓮のワンピースに掛かる金髪が朝日に透ける。

可憐な王女の姿に一瞬目を奪われるミージュであったが、それを悟られない内に用件を伝える。

「ええと……リファリエール様、荷解きお疲れ様です。朝食の後、案内も兼ねて一緒に街の散策をさせて頂きたく思いまして……も、勿論、ご都合がよろしければですが!」

ミージュの言葉をしかと聴き終え、リファリエールは小さく微笑む。

「ミージュさん、ありがとうございます。是非ご一緒させて下さい」

喜んでくれているのだろうか。

王女の優雅な表情の中に微かな期待感の様なものを感じつつも、あえてその事には気付かないふりをしてミージュはリファリエールを部屋から連れ出す事にした。

 

 

飲食店にパン屋や菓子屋、本屋に雑貨屋、服屋に香水屋。

年季の入った食事処から若者の気を引くような洒落た看板の店まで実に様々な建物が街を形作る。

昨日、地図を片手に右へ左へと歩いた道であったが、その時には気付けなかった街の呼吸をリファリエールは確かに感じとる。

一歩ごとに街の活気が愛おしくなる不思議な感覚に大国の王女はある種の感動を覚えていた。

対するミージュは、今すぐにでもこの慣れ親しんだ騒がしさの中へと埋もれてしまいたいような心持ちであったが、まさか実際に大国の王女をここで一人にする訳にもいかず、視界の端に輝く金髪が映り込むたびに息が詰まった。

石畳を歩く二人の少女達の視線は交わる事はなく、ただ同じ行き先を揃って見つめるばかりであった。

二人の間に流れる妙な沈黙を横目に、群衆にまみれた大通りは更に活気を増していく。

ミージュは横目で王女を一瞥するも、その涼やかな表情から何かを読み取る事は出来ない。

王侯貴族とは皆この様な表情で出歩くのか、あるいはこの王女特有の表情なのか。

未だ見慣れない高貴な少女の姿をもう一度見たくなり、ミージュは外した視線を再びリファリエールに向けた。

交わる視線。

リファリエールは自分を見つめる夕日色の瞳に対して、控えめな笑顔を作ることしか出来なかった。

何かしらの気の利いた言葉の一つでも言いたかったが、城育ちの王女には難しい。

同年代の少女とこうして連れ立って街を歩くなど初めての事であったし、正しい作法もわからない。

とにかく、せめて王家として恥ずかしくない表情を顔に貼り付ける事で精一杯であった。

ミージュからも似たような笑顔が返ってくる。

やり過ごす様にして二人は笑い合い、正面を向いた。

しかし、幸いにも間を繋ぐ事は出来た様で、ミージュは安堵した声で言葉を紡いだ。

「あ、見えてきました。ここが噴水広場です」

そのまま大通りを進んだ二人は開けた場所にたどり着く。

「綺麗な噴水……」

広場の中心に堂々と佇むのは鎧を着込んだ美しい女であった。

石で作られ、実寸より遥かに大きいであろうこの女戦士は静かに水と遊び、賑わう広場に幾ばくかの落ち着きを与える。

「正式には……確か、竜姫の碑と呼ばれていた筈です。街の観光名所にもなっています」

歴史の重みまで共に削り込んだ様な見事な彫刻であった。

全てが古びた石であるにも関わらず、職人技によって時代を超えてきた気迫と麗しさ、そしてこの英雄に対する人々の信仰と憧憬にリファリエールは飲み込まれそうになる。

「これが竜姫なんですね。確か……“千日の祈りにより訪れし英雄。その者、災厄たる竜を地に伏す。その者、人々に差し伸べられし神々の寵愛。その者、救世と秩序を齎す者。”そう本で学びました」

「……は、博識ですね!」

やはり姫の教養は街の子供達とは訳が違う様であった。

今まで忘れかけていた、自身が生まれ育った街の伝説をさらりと述べる異国の王女にミージュは心底関心した。

とはいえ、もてなすのは自分の側だ。ミージュは何とかこの噴水について補足してみる事にした。

「ええと、確か大昔の戦争の後に立てられたもので、何でもこの街がアーデルクって呼ばれる前からあるらしく……」

おそらく、自身の何倍も本を読んできたであろう王女にとって、この話もまた初耳ではないだろう。

それでも真剣な表情で頷きながら説明に聞き入る目の前の少女の姿に、ミージュは安心感と愛おしさが綯交ぜになった様な感情を抱くのであった。

「きっと、この様な話、リファリエール様は私よりも詳しいとは思いますが……」

「いいえ、本で読むよりも……ずっと素敵です」

少女達は噴水を見上げながら、しばし語り合う。

この世界には失われた歴史や、いまだに解明していない過去の出来事が山のようにある。

神話に描かれる英雄の物語や伝説として語られる戦いの数々。

これらは時に学問として、時におとぎ話として、そして時に少年少女の話の種として、世界に華を添える。

「結局、詳しい事実は分かっていないそうですが」

ミージュが街談巷説の決まり文句で話を結ぶ。

二人は互いに、先ほどより少し柔らかな笑顔を作って見せ合い、喧騒の中の落ち着いた水音が穏やかな空気をもたらす。しかし。

「わぁっ!?」

リファリエールは突然の聞いたこともない轟音に小さく飛び上がった。

その音は噴水広場を囲む建物の壁に反響し、空間を満たしていく。

獣の咆哮。火薬の炸裂。否。

それは前触れもなく広場に踏み入ってきた、大きな鉄の箱が吐き出した声であった。

鉄の箱は派手な色と装飾に覆われ、下部にはいくつもの車輪を備えていた。

「ミージュさん、あれって、もしかして……!」

リファリエールの表情が驚嘆から期待へと移り変わり、ミージュの絵筆の様な尻尾が大きく揺れる。

「はい!魔導自動車ですよ!」

折り重なる金属の骨、石畳を踏み付ける円環、魔力と熱を帯びた轟く心音。

新たな時代の象徴たる、機械という存在はとにかく目を引く。

魔力を以って動く装置、魔導機械が世に知られる様になってからまだ日は浅く、広場に居合わせた誰もが動く大箱に注目した。

「すごい……本当に機械の車が街中で動いてるなんて」

あらゆる研究が盛んな学術都市アーデルクでは、広く機械が用いられているという噂は耳にしていたし、生まれ故郷である王都と学術都市を繋ぐ鉄道にも乗ったばかりのリファリエールであったが、それでもなお、往来の真ん中を進み、街の景観を様変わりさせる魔導自動車の姿は衝撃的であった。

「リファリエール様、始まりますよ」

始まる。

一瞬ミージュの言葉の意味が分からなかったが、次の瞬間、今度は目の前で起こる出来事が分からなくなった。

巨大な門扉が開く様に、横長の家屋ほどの大きさの魔導自動車の側面がひとりでに割り開かれていく。

やがて、箱の様な見た目であった鉄の塊は、騒々しい歯車の回転音と共に見事に姿を変えた。

それは小さな舞台。鉄の箱の正体は移動式の劇場であった。

「ミージュさん……ミージュさん!すごいです。これは一体なんでしょう?」

その瞳を輝かせた王女の表情はミージュにとって意外なものであった。

「流行りの大道芸……みたいなものです。せっかくですから少し観ていきましょうか」

「はい!」

今まで、鉄の箱に隠されていた幕がおもむろに上がり、広場を沸かす。

ともすれば頓痴気な程に派手な衣装。真っ赤な機械の靴を履いた一人の美女が舞台の奥から前へ。

主役が客前に躍り出ると、演奏が始まった。

それはリファリエールが生まれてこの方、聞いたこともない音色と予期せぬ激しい調べ。

舞台の裏で、どんな楽器を、どの様に弾き鳴らしているのか全く見当がつかなかった。

演奏に合わせ、主役は機械の靴を踏み鳴らすと、その妖艶な唇を開いた。

鋭く、どこか甘やかな歌声に歓声が上がり、広場を興奮が支配した。

「素敵です……この様な舞台が観られるなんて」

「お気に召した様で。この街の若者に人気なんですよ……私も大好きです」

舞台に夢中になる王女の楽しげな表情にミージュは胸が踊った。

何かをこの王女と共有出来たのだろうか。少なくとも息苦しいだけであった先ほどよりは、隣の少女を身近に感じて妙に嬉しい気持ちになる。

広がる歌声、揺れる衣装。

曲の盛り上がりに操られて騒ぐ観客。

空気を振動させて全身に伝わる、この街の若者文化に改めて新たな日々を実感する。

隣の同年代の少女と同じものを好きになれた。その事がリファリエールは何故だか嬉しかった。

演奏と踊りが一層激しさを増し、舞台は終幕へと加速する。

主役が華麗に身を翻し、観客に背を向けたところで切れ良く音楽は止んだ。

気付けば噴水が与えた穏やかさは完全に消し飛んでいた。

広場にひしめく人々から飛ぶ、投げ銭、花束、喝采。

この騒ぎが収まることは、しばらく無いだろう。

「わたし、感動してしまいました」

「それは、良かったです」

リファリエールの満足した顔を確認すると、ミージュはポケットから取り出した小銭を舞台に投げ入れ、王女の手を優しく引いた。

「混み合ってきましたね。そろそろ参りましょうか!」

「はい!」

 

 

街の賑やかさはより楽しいものに感じられた。

観劇の魅力は、幕が下りた後にも続く。

噴水広場からの道中、リファリエールとミージュは機械仕掛けの舞台の余韻を互いに楽しみながら、街の中心部へと歩を進めていた。

進むほどに人の数が増えていく。声が声を搔き消し合う、目を回しそうなほどの人混みだ。

「人がたくさん。お祭りでもあるのでしょうか?」

「あはは……街の中心に近いですから。残念ながらいつも通りの光景です」

王女の問いに、少し冗談めかした笑いを交えてミージュは答えた。

この賑やかさは日常風景。リファリエールは興味深げに辺りを見回す。

道行く人々や店に吸い込まれていく人々、商売人や傭兵、人間に獣人。

様々な人々が様々な生き方をしている事に気が付き、それがどこか面白く感じられた。

そんな中、一人の大柄な獣人の男が足早にこちらに近づいてきた。

リファリエールが今まで出会ったことのない風貌の男であった。

重々しい鎧と幾つかの獲物、そして無数の古傷に彩られた灰褐色の分厚くざらついた肌。

鼻先から伸びた角と、小さく鋭い眼光は何とも厳しく、背丈はリファリエールの二倍にも及ぶだろうか。

王女は自身の視界を塞いだ大男を見上げた。

「よう!ミージュじゃねえかよ。お出かけか?」

重厚な容姿に比べて幾分も明るい声色の主は、ミージュの顔見知りの様であった。

「久しぶり!最近はお店に来てくれないから遂に……って心配してたんだけど」

「縁起でもねぇ事言いやがって。ほれ、この通りだ」

言うが早いか、男は肩に担いでいた巨大な何かをミージュに見せびらかした。

リファリエールの目には、それはよく分からない青黒い鱗の塊の様に映る。

「青銅蜥蜴の尻尾!まさか一人で狩ったの?」

「いや、この尻尾を切って逃げやがった。でもまぁ、こいつを売れば儲けにはなるかな」

「今から売りに行くなら、明日の朝には市場に並ぶよね。縁があればうちの店で調理させてもらうかも」

「えぇ?こいつを食うのかよ?」

「人によっては……ね。でも、滅多に見れない高級食材だから、狩人様様だよ」

ミージュと男の顔を交互に伺う王女。

いまいち、二人が何について語り合っているのかは分からないリファリエールであったが、男が狩猟を生業にしている事、彼とミージュがこの街の中で何らかの繋がりがある事、そして男が担いだ物体の正体が巨大な魔獣の尻尾である事だけはなんとなく理解した。

「で、そっちの嬢ちゃんは?ミージュの友達にしてはお上品じゃねえか」

向けられた百戦錬磨の目線に、思わずリファリエールは背筋を伸ばす。

「リファリエール様、彼は私の知り合いの狩人で……お店の常連です」

ミージュが耳打ちで男に代わって彼を紹介すると、リファリエールは小さく膝を曲げて姿勢を低くしてみせた。

「はじめまして。昨日からグラヴァーレ亭でお世話になっているリファリエールと申します。お見知りおきください」

「お、おう!なんだこりゃ!?そうだな……俺はこの街の市長アデンだ!よろしくな」

生憎、男は貴族の社交には疎かったが、それでもリファリエールの自然な所作から、ただならぬ物を感じ取った。

しかし。事も有ろうに、男は変わらぬ調子で街の市長の名を騙った。

「え、街の市長様なのですか?」

無論、冗談ではあるのだが。

「もう、名前くらいしっかり名乗りなよ。あの……リファリエール様?市長というのは彼のつまらない冗談です」

とはいえ隣の少女の方がよっぽど冗談じみた身の上である。ミージュは妙に真剣な表情を浮かべている王女に念押ししておく事にした。

「で、“市長”さん?いわゆる、なんていうか、その、彼女は本当に上品な人だから……よろしくね」

「なるほど?まぁ、この街にはいろんな人がいるわな」

何事も無さげに男は笑うと、巨大な青黒い尻尾を担ぎ直す。

「というわけだ。邪魔しちゃ悪いし俺はそろそろ行くぜ。次の狩猟はミージュも助っ人に来てくれや」

「うーん、力比べで私に勝てたら考えてあげる」

「はは、無理言うなっての。じゃあな、嬢ちゃんも勉強頑張れよ」

固く分厚い手を振り、ついに男は本名も名乗らずに人混みの中に混じって行った。

この街にはいろんな人がいる。

王女は男の背中を笑顔で見送りながら、彼のさりげない言葉を胸の内で何度か繰り返していた。

 

 

 

表通りの騒がしさが少しだけ遠くに聞こえた。

両側を建物に挟まれ、あまり陽に照らされない細い道を風が通り抜けて行く。

無造作に置かれた鉢植や、窓の手すりに干された衣服、何やら分からない怪しい店の看板たち。

路地裏が見せる、街の自然体の表情。

その風情を楽しむように、僅かに歩みを遅めて、二人の少女は街を行く。

「やっぱり、王都とは違いますか?」

「はい。この街にはいろいろな物があります」

「ええ、確かに。もし気になるお店があれば、いつでも言ってくださいね」

「ありがとうございます……あの、お店には言伝もなく突然に伺っても大丈夫なものなのでしょうか?」

「営業時間内なら問題ない……とは思いますが」

妙な質問だと思ったが、すぐにミージュは王女の意図を理解した。

「わたし、今までお買い物をした事がなくて。変な質問でしたか?」

「いえ、ただ、なんだかお姫様らしいなと思いまして」

「恥ずかしながら世間知らずなもので……」

「あぁ!すいません!そういう意味ではなくて!」

申し訳なさそうな、照れ臭そうな、微妙な面持ちのリファリエールを見て、ミージュは弁明した。

自分たちが住む日常とは別世界から来た少女。

きっと、彼女の表情の理由は、この街や世間というものに歩み寄りたいから故であろう。それならば。

「……でも、分からない事があれば何でも聞いてくださいね。その、私でよければですが」

知らない事は知れば良いのですから。

出かかった僭越な一言は飲み込んで、ミージュはリファリエールに微笑みかけた。

路地裏をすり抜けた風音は、二人の会話に調子を戻す。

「ありがとうございます。あの、ところで、早速の質問なのですが……」

「はい、なんですか?」

リファリエールはミージュの肩越しに建物の窓に指を差した。

「あれは一体、なんでしょう?」

窓の奥では、魔族の初老の男が腰掛けており、その後ろには人間の青年が立っていた。

甘い顔立ちの青年は、何やら数種類の薬液らしきものを調合している様子。

「あれはですね……」

混ぜ合わされた薬液が緑色に淡く光りだすと、青年はそれを目の前に腰掛ける男の短く刈り揃えられた黒髪に浴びせかけた。次の一瞬。

「きゃっ!」

窓から溢れた眩い光にリファリエールは目を瞑り、そして恐々と開く。

「え?あれ?」

短かったはずの黒髪はまるで天を突き刺す塔の様に聳え立っていた。

「の、伸びちゃった!?」

「この美容室、結構人気なんですよ。魔法で髪を伸ばして好きな髪型になれるそうで」

魔導植物の成長作用を応用した薬品がどうとやら。

「本当に、いろいろなお店があるんですね……」

しばらくの間、二人の少女は窓越しに、見事な青年の鋏捌きに見入っていたが、あまり見つめられていても仕事の邪魔になるだろう。

二人は再び表通りを目指すことにした。

 

 

古材の床板に靴音が心地よく響く。

滑らかな風合いの木製棚に整然と並べられた赤、青、黄、その他諸々。

精巧な装飾が施された物から陳腐な子供騙しまで、あらゆる装丁の本をリファリエールは順々に見ていく。

リファリエールは生まれて初めての買い物に心躍っていた。

「リファリエール様、これなんか綺麗じゃないですか?」

黒い革表紙に白銀の縁取りが施された一冊をミージュは棚から取り、リファリエールに手渡した。

「綺麗……中の紙も素晴らしいです」

小さな手に捲られた高級紙には文字も絵も一切記されていない。

店の中で、これまでリファリエールが目を通した他の本も同様であった。

「筆記帳の専門店があるなんて私も知りませんでした。せっかくだし私も一冊……」

ミージュは手近にあった、青地に流線で模様が描かれた表紙に手を伸ばして、触れるのを止めた。

「さ、三千キルク……!?店長さん、これって一体」

まさに手が出ない金額であった。

何の知識も載せられていないにも関わらず、自分の三ヶ月分の小遣いに匹敵する紙の束に疑問を抱き、ミージュは店主に問いかけた。

「なんだ、知らずに見ていたのかね。そいつはただの帳面じゃない、白紙の魔術書だよ」

店の奥に座っていた、尖った耳に片眼鏡を掛けた老婆が口を開いた。

「魔術書?あの、よく魔法使いの人が持ってるやつ?」

「そう。その白紙の本に研究記録を記すんだ」

「なるほど。でも、なんでこんなに値段が高いの?いや、値切る気はないんだけどさ」

「これでもお値打ちな方だよ。簡単に言えば、紙に対魔法効果を施してある。ほれ、そっちの赤いお嬢ちゃんの服と同じ様にね」

ミージュは、王女を包む真紅のワンピースを改めてまじまじと見てみる。

「この魔導服、本格的に魔術を学ぶという事で仕立ててもらったんです。火にくべても決して燃えないそうで」

「可愛い服だとは思っていましたが、そんな効果が……」

服を褒められ嬉しげな表情を見せたが、すぐに気恥ずかしそうにリファリエールは手にした商品に再び目を落とした。

「つまり、そういう事さ。例えば、さっき君が手を伸ばした青い本は殆ど水には濡れない。なんて具合に用途によって色々あるわけさ」

確かに水濡れしない紙とは高級そうだ。老婆の言葉にミージュは深く頷いて見せた。

「ちなみにだ。赤い方のお嬢ちゃんや」

老婆は片眼鏡を指で押し上げ、リファリエールに語りかけた。

「その本は魔術士にはおすすめしない。装丁は綺麗だが、魔法耐性が普通の帳面とそう変わらないからね」

「そうですか……」

リファリエールは名残惜しそうに、その美しい本を棚に返した。

「見た限りじゃ、これから学園に入学するって所かね……悪い事は言わないよ。そっちの本にしときな」

老婆が指差した本は非常に簡素な物であった。

面白みも、可愛げもない深緑色の本をリファリエールは手にする。

「あまり気乗りしないかい?でも、そいつはあまり燃えないし濡れない……それに、装丁より中身だよ。本も人もね」

これから、自分はこの本に何を記すのか。装飾のない本が何やら素晴らしい物に見えた気がした。

「ミージュさん、勉強に使う記録帳はこれにしようと思います」

「ええ。少し大人っぽくて素敵だと思いますよ」

街の中心部で店を見付けて以来しばらく。リファリエールは初めての買い物を終えようとしていた。

「ええと、お会計をする時は……これで足りますか?」

慣れない手つきで、リファリエールが小さな財布から取り出したのは一枚の紙幣。

「ああ、七百キルクだから……ん?こりゃ十万キルク紙幣じゃないか!」

「うわ!初めて見た!!」

王女が勘定場に差し出したそれは、小切手が使えない状況での商取引を簡易化する為、とある巨大な商会が市に発行させたと噂されていた超高額紙幣であった。

街外れであれば、十枚で小さな家が建つ価値を持つ一枚

「貴族の客だって少なくないが、流石に驚いたね……さておき、もう少し細かいのは無いのかい?」

「ご、ごめんなさい。ええと、七百キルクだから……」

商品の価格も相場も、金銭の価値も、通貨の種類も把握していなければ当然の状況であったが、王女にとっては不測の事態に慌てて財布を探る。

「リファリエール様、こっちの小さい紙幣を使って下さい。それで十分です」

脳裏に都市郊外の一軒家がよぎった。王族の財布に卒倒しそうになりつつも、ミージュは自分にも馴染みのある一枚の紙幣を指し示した。

「ミージュさん、ありがとうございます。あの、これで」

「はいよ。千キルクお預かりね」

なんとか、問題なく進む会計に一息ついたリファリエールの目に一片の紙が映る。

「あぁ、それかい?魔術書用の栞だよ。挟んでいる間、その頁に書かれた魔術式を無効化してくれるんだ」

夜空を映した様な黒に、羅列された魔法言語によって幾何学模様が刻まれた小さな四角を王女は手に取る。

「ただ、魔法使いがいなけりゃ魔術書は機能しないし、悪意ある誰かが頁を開いた時点でその栞は抜かれるだろう」

「それって、つまり……」

「魔法の暴発を防ぐもの……剣にとっての鞘の様なものかね。魔法使いとしての礼儀の一つさ。気になるならオマケにくれてやるよ」

「よろしいのですか!?」

「栞一枚で何処ぞの令嬢に贔屓にしてもらえりゃ儲けものさ。ともかく、勉強頑張りなさいな」

「ありがとうございます!」

老婆が丁寧に紙袋に包んだ白紙の本と栞。

それをリファリエールは心底嬉しそうに受け取り、店を後にした。

「良い買い物が出来てよかったですね」

「はい。おかげさまで勉強の準備が整いました」

紙袋を大切そうに抱える王女の表情は朝方の涼やかなものよりも、ミージュにとって親近感の湧くものに思えた。

「他に行きたい場所はありますか?」

未だ空は青く、太陽も真上にある。近場なら何処へだって行けるだろう。

「特にありませんが……その、出来ればミージュさんの好きな場所に連れて行ってほしいです」

意外な申し出であったが、ミージュは笑顔で応える。

「わかりました!じゃあ次行きましょうか!」

 

 

机の中央には極彩色の果物たちと、どういう原理か発光するクリームとソースで形作られた山があった。

厚手の陶器に盛り付けられたその山の頂上には、いくつもの駄菓子が突き刺さっている始末だ。

王城の食卓には各国の料理が並んでいた筈だが、未だかつてこの様な食品があっただろうか。

前衛芸術の様な出で立ちのそれに、リファリエールは目を丸くする。

「多いですから二人で食べましょう。見た目の割に美味しいんですよ」

食用の山について一言添えると、机越しのミージュは山に突き刺さった駄菓子を口に運んだ。

リファリエールも山を崩さない様、光るクリームと紫色の果実を小皿に取り分け、ひとさじ口にしてみる。

「あ、おいしい……なんでしょう、すごく甘くてふわふわした香りといいますか……」

「お口に合って良かったです。この喫茶店、メニューの見映えがすごいって若者に最近話題なんです」

天井扇がゆったりと回る淡い色使いの店内には、確かに年頃の少年少女が多く見受けられた。

ミージュが山を大きく削り取り、リファリエールは今度は黄色い果実を匙に乗せ、それぞれの皿に運ぶ。

「その指輪、素敵ですね……綺麗な宝石」

皿に添えたリファリエールの左手を見て、ミージュが呟いた。

磨き上げられた黄金の輪と、そこにはめ込まれた緻密に加工された緋色の宝玉が安物ではない事を静かに主張する。

「王都を出るときにお爺さまに貰ったんです」

それは一見、年頃の少女が身につけるには華やかさに欠けるようでもあったが、職人技が見え隠れするどこか幾何学的な美しさを湛えた見事な逸品であった。

リファリエールの祖父、即ち大国の王からの贈り物とあれば、それが至高の宝飾品である事に疑う余地は無かった。だが、それよりも。

「すごく似合ってます。こういう意匠が好みなんですか?」

ミージュが話したい事は、指輪の市場価値でも王国の威光でもなく、目の前の少女の趣味や好みについてであった。

「これ、実は魔導器なんです。勿論、気に入ってはいますが、わたしの趣味かといえば……難しいところです」

「そうなんですね。服も指輪も全部お似合いですけど」

「嬉しいです。でも、わたしが選んだ物ではないので……お洒落についても教えて頂きたいです」

小さく微笑み、リファリエールは光る菓子を口に運ぶ。

「ええ、私でよろしければ……この後、服屋でも覗いてみますか?」

「ぜひ!ミージュさんはお洒落なので楽しみです」

ミージュはひときわ大きな薄赤色の果実を山から器用に運び出し、それを皿の上で切り分ける。

不意にリファリエールの視線がミージュの首元に定まった。

静かに煌めく細い白銀の首飾り。

「あ、これですか?兄にもらったんです。趣味ではないですけど、お気に入りです」

「とても綺麗で見つめてしまいました。お兄様がおられるのですか?」

「ええ。歳が離れていて、今は外国で働いていますけど。リファリエール様の部屋も元は兄の部屋だったんです」

ミージュが随分と小さくなった山から青い果実を取り出す。

「正直なところ……部屋、狭く感じないですか?今まではお城に住んでたんですよね?」

「確かに王城は広いですが……それよりも、お借りしたお部屋は街の賑やかさが感じられて素晴らしいです」

「それなら良かったです。たまに騒がしすぎる時もありますけどね!」

冗談めかしたミージュの言葉を聞きながら、リファリエールは黄緑色の小さな果実を掬い上げる。

気付けば、早くも食用の山はほとんど更地になっていた。

「とてもおいしかったです。素敵なお店に連れて来て頂きありがとうございます」

「また来ましょう。少し休んだら次は服屋です!」

他の客席から聞こえる、若者たちの談笑や馬鹿騒ぎ。

自分達もその賑やかさの内の一つだという事に気付く。

昨日出会ったばかりの互いの顔を不意に見つめ合い、二人は互いに笑顔を溢した。

 

 

「ほら、やっぱり可愛い!似合いますよ!」

リファリエールは、鏡越しに自身の二つに結われた髪を見遣ると、二筋の金色の先には、これまでは無かった紅蓮のリボンがあしらわれていた。

「髪先に装飾するなんて思いつきませんでした」

姿見の中のミージュが艶やかな尻尾を揺らし、その先に嵌められた金属製の装飾品を示して見せる。

「角や尻尾を持つ種族なら大体考え付くんですけどね。リファリエール様、良い感じですよ!」

何度も身を翻して鏡を覗くリファリエールを横目に、ミージュは顔馴染みの店主に呼びかけた。

「店長、これいくら?」

ともすれば、少女と見紛う様な体躯の、青い羽毛の髪の店主であった。

店主は裁縫の手を止めて、リファリエールの髪に眠たげな視線を注いだ。

「それ?どうしよう。じゃあ二つで五十キルクくらい?」

「もう本当、適当なんだから。安すぎない?大丈夫?」

「そのリボン、元は裁ち落とした布の切れ端だから。あ、でも一応、魔導繊維」

見映えは良いが、王女に切れ端とはいかがなものだろう。

「リファリエール様、これ実は元々は端材らしいんですけど……どうします?」

「わたし、これがいいです。せっかくミージュさんが選んでくれた物ですし」

王女は、もうこのリボンに心を決めていた様であった。

「はい、じゃあ五十キルク」

王族に対して出過ぎた真似な気もしたが。

「毎度どうも。その子、新しい友達?」

ミージュは店主の質問に曖昧な表情で返すと、一枚の硬貨を手渡した。

「え?あの、ミージュさん?」

「私からの歓迎の気持ちです。安い贈り物ですけど……その、似合っていたので!」

リファリエールは思わずミージュの手を取った。

「あの、ありがとうございます。大切にします」

「喜んでもらえて光栄です。店長、またね」

ひらひらと小さな手を振る店主を背中に、二人の少女は店を後にした。

 

 

街を支配する色は橙であった。

既に太陽は建物の間に潜ろうとしている最中であり、人々はそれぞれの勤めを終え、昼間の喧騒に新たな喧騒を上塗りしようとしている。

街のどの場所よりも規則正しく並んだ石畳に影を伸ばし、二人の少女は空を仰いだ。

「これが……魔樹メリーチェ」

いかなる建築よりも高く聳える街の象徴たる大いなる魔法の樹。

神話の時代より世界を見下ろすそれの樹齢は誰も知らない。

「そして、ティリスヴァーナ魔法学園です」

大樹の枝先と樹洞に建てられた建物。これこそが学術都市が誇る学舎であった。

閉ざされた魔法学園の細工鉄の門を前に、二人は向き合う。

「今日は街の案内、ありがとうございました」

「いえ、私の方こそ。今日は楽しかったです」

「……あの、帰る前に一つだけお願いが!」

「ええ。なんでしょう?」

門の奥から吹く、魔力を帯びた風が少女達の間を通り抜けた。

「その、呼び捨てにして頂ければ……なんて」

自分達がどの様な関係なのかはまだ分からなかったが、世界を統べる大国の王女を呼び捨てるなど。

だがしかし、もはやミージュにとってその事に抵抗はなかった。

「うん、わかった。これから一緒に住むのに気を遣ってたら疲れちゃうもんね。でもその代わり……」

「その代わり……?」

「私の事も呼び捨てで呼んでね」

僅か一日。それでも、空の色に溶け込む夕陽色の髪の少女の笑顔は、リファリエールにとってもう馴染みのあるものに思えた。

「う、うん。ミージュ、明日から一緒に勉強頑張ろうね」

「改めてよろしく、リファ」

太陽が沈む直前、二人の影が重なった。

「……ん?待って、リファ。今、一緒に勉強って……まさか?」

「ミージュも一緒に学園に入学するって聞いたよ?」

一日の終わり、リファリエールが放ったその言葉は、ミージュが十三余年間生きて来た中で最も驚くべきものであった。